歴史の旅海外の旅

八田與一先輩の台湾での人生、『世界で有名な日本のこと』より。

 

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みなさま、こんにちは!

 

本日は、台湾旅行に関してのお話をさせていただきます。

私は、日本司法書士会連合会総合研究所で英米法分野土地法(豪州・英国・米国の土地登記制度)について調査・研究するようにとの委嘱を受け、その研究にあたっている時に、

中華民国(台湾)の土地登記制度が、豪州(オーストラリア)のトレンスシステム(世界三大登記制度の一つと言われる)を導入しているので、

アジア諸国の諸制度を研究している方々から、トレンスシステムがわからないので同行するようにとのオファーがあり、中華民国(台湾)土地制度研究班の方々と、二度台北を現地調査のため訪問しました。

二度の台湾への渡航の際、気付くことはなかったのですが、後年、英米法の財産法研究のため、英語の勉強を継続しておりまして、教材としてJリサーチ出版『ゼロからスタートEnglish』を一般教養テキストとして使用していたところ、

2016年Winter号(年四季4回出版)の特集で『世界で有名な日本のコト!』のアーティクルの中に、次のタイトルのものがありました。

『Who was Yoichi Hatta?』

八田與一とは誰でしょうか?

If you’re like me, you have no idea who he was. He was recommended  by a friend for this issue,but that was the first time I had ever heard his  name.But if you’re Taiwanese or know much about Taiwan, then you almost certainly do know who he was.

あなたが私と同じなら、彼が何者かわかわないでしょう。この号のため、友人に彼のことを勧められたのですが、私が彼の名を聞いたのはそれが初めてでした。でも、台湾人か台湾に詳しい人なら、彼が何者か、ほぼ確実に知っているでしょう。

Hatta was an engineer born in Kanazawa, Ishikawa in 1886. After graduating from Tokyo Imperial University in 1910, he decided to become a hydraulic engineer. He went to Taiwan and joined the Seat of Governor-General of Taiwan and served as a technician of the Government.

八田は1886年石川県金沢に生まれた技術者です。1910年に東京帝国大学を卒業した後、彼は水利技術者になる道を選びました。台湾に行き、台湾総督府に加わって、政府の技術者として働きました。

The first basic infrastructure project was underway in Taiwan, and Hatta was seen as an ambitious and capable engineer. He proposed the construction of the Chianan Canel and Wusanto Reservoir to help control flooding and develop farmland, and he was chosen to design and implement the enormous project.

最初の基本的なインフラ計画は、台湾で進行中でした。そして、八田は野心的で有能な技術者と見なされました。彼は、洪水の制御と農地の開発を助けるため、嘉南大圳(かなんたいしゅう)と烏山頭(うさんとう)ダムの建設を提案しました。そして、その途方もないプロジェクトの設計と実行のために、選出されたのです。

という内容のストーリーが、以降、1942年八田はフィリピンに派遣されて向かう途中、米潜水艦の魚雷により乗っていた太平丸が撃沈され、死没。そして後を追い、1945年9月1日、烏山頭ダムに身を投げた奥様のことが、英文での記述で続いておりました。

これが、八田與一先輩の偉業を知るきっかけとなったのですが、その功労に対し、今でも台湾の教科書にその功績が記載されており、台湾でとても尊敬され感謝されている日本人技師となっています。

 

 

(八田與一先輩は子沢山で、妻外代樹様とのあいだに二男六女の八人の子供を設けられています。)

その功績を讃えるために、八田與一先輩の銅像は烏山頭ダムに設置されており、ダム完成後の1931年(昭和6年)に作られたものだそう。

八田與一先輩自身は、像の設置を固辞していましたが、住民と工事に関わった人が熱心に像の設置を推進したため、最終的には銅像が建てられることになりました。ただ、銅像は八田與一先輩の意向を汲んで、威圧的なものではなく、工事中に熟慮、苦悩する姿が選ばれたとのことですね。

そして、台湾住民によって守り抜かれた銅像

やがて、台湾では第二次大戦中、国家総動員法に基づく金属類回収令の施行で、銅像などは徴発されましたが、住民により銅像は守られました。中華民国時代になり、蒋介石の国民党政府が日本が残した建物や顕彰碑、銅像を破壊しましたが、八田與一の銅像は住民によって隠され、1981年(昭和56年)1月1日に、再びダムを見下ろす今の場所に設置された歴史があります。

ところが、ダムが見渡せる場所に建てられていた像が、まさか今になってこんな事件が起きるとは予想もしていなかったのですが、このように守られ続けた銅像が、2017年4月15日無残に破壊されてしまいました。

その後、『首を切り落とされた八田與一像、完全修復され慰霊祭が予定通り行われる。現場には反日団体集まる。』との報道がなされおりました。

八田與一先輩の命日に当たる2017年5月8日、八田與一を偲ぶ慰霊祭が予定どおり執り行われたとのことでした。

 

 

烏  山  頭  水  庫  公  園
住所 台南市官田區嘉南里68-2號
電話 (06)698-6388
営業時間 7:00〜18:00(暑假6:30から)
料金  大人200元 駐車場 普通車50元(料金は変更あり)
ホームページ wusanto.magicnet.com.tw
アクセス タクシーを利用されるほうがいいと思われます。

(以上の資料は、ネット上の記事より抜粋させていただきました)

 

DSC03941 (1)

 

参考までに、KANOという台湾の高校が初めて甲子園に出場した実話を描いた映画に、大沢たかおさん演じる八田與一先輩が出て来られます。

 

映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』公式サイト 2015.1.24ROADSHOW

 

KANO 1931海の向こうの甲子園』(カノウ いちきゅうさんいち うみのむこうのこうしえん – 原題『KANO』)は、2014年の台湾映画。「かのう」とは、日本統治時代の台湾の嘉義市に実在した、嘉義農林学校を日本語読みした当時の呼び名。

 

以上、台北市方面ばかりを旅して、台南市、高雄市方面まで足を伸ばさなかったので失礼いたしますが、

台湾をこよなく愛する皆さまの中で、まだ、先人の偉業の地を訪問されたことがない方がいらっしゃいましたら、私の分も含めて、ご挨拶にお出かけいただければ幸いでございます。

本日は、『世界で有名な日本のこと』としての記事でございました。

 

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