歴史の旅

初冬の夕方、三重県鈴鹿市にある荒神山(高神山)を訪ねました。

みなさま、こんにちは!

 

今日は、12月初冬のある日に、三重県鈴鹿市にある高神山観音寺を参拝しましたので、高神山について記述させていただきます。

 

俗に、荒神山と書いて、次郎長伝吉良の仁吉で全国にその名が知られています。

 

荒神山の喧嘩は、慶応2年(1866年)4月8日神戸(かんべ)の長吉(ながきち)と、桑名の穴太徳(あのうとく)が縄張り争いから、この観音寺の裏山で200人前後の身内を投入、入り乱れての死闘をつくしました。

三州吉良港の仁吉は長吉の頼みに応じ、子分の松阪の米太郎、清水の次郎長の身内の大政、樋屋の鬼吉らと共に戦い、穴太徳に大勝しました。

 

しかし、この戦いで仁吉は、28才の若さで兇弾に倒れ死亡しています。

 

 

昭和26年3月、浪曲界の重鎮広沢虎造師により、追悼碑が境内に建てられています。

このように、荒神山の喧嘩で有名な観音寺ですが、以下、正式な当寺院の記述です。

 

 

高神山観音寺は、9世紀の初期、嵯峨天皇の時代弘仁3年(西暦812年)に、弘法大師が日本武尊を御神霊を仏像としてまつり、

 

 

 

神事山と称したのが始まりで、その後、寛治元年(1087年)に大和の国の法陵律師という聖僧が、神事山の観音大士のおつげにより当地を尋ね、

 

檜の大樹の下に、尊き十一面観世音菩薩のおわします姿を見い出して、御堂を建立安置したのが縁起と説明される寺院です。

 

 

当山は、真言宗御室派総本山仁和寺に属し、前述のように住吉は神事山(かうじかやま)といい、後に高野山の一字をいただいて高神山と改めたのだそうです。

 

俗に荒神山と書いて、次郎長伝、吉良の仁吉で全国にその名が知られることになりました。

寺院には、十一面観世音菩薩と日天、月天、地天の銅仏が安置してある本堂、春日局が寄進した梵鐘がおさめられている鐘樓堂、三宝荒神と九面観世音の二体が安置されている奥之院があります。

 

徳川3代将軍徳川家光の乳母春日局(かすがのつぼね)は、このお寺に信仰が篤く、正保4年(1647年)に銘入りの釣鐘と5体の仏像を寄進しました。境内には春日局の歌碑があり、「さと遠き かうじが山の紅葉に 観音大悲ひかりとどまる」という和歌が刻まれています。

 

春日局とのかかわりについて

出羽国湯殿山の修験者順海上人が寛永10年(西暦1640年)伊勢大神宮へ参詣の途中、眼疾を患い、失明しました。

伊勢大神宮に開眼の志願をしたところ、夢枕に神童がたち、この神事山の十一面観音菩薩像に祈願せよとのおつげがあり当寺院に参拝して7日目、開眼することができました。

以来上人は、余生を御本尊に専心奉仕を決意し、修法怠らないで献身しました。

またその姿を見て、姉にあたる春日局が正保4年(1647年)仏恩奉謝のため湯殿山に勧請して、日天、月天、地天、三宝荒神4体を銅仏に鋳立てて、当寺院に寄進しており、中でも三宝荒神は、最も不浄を忌み火の清浄を愛するところから竈(かまど)の神様として有名で、暴悪を治罰する神徳から正義が祈られ、勝運が願望されています。

 

また、当山には慶応2年4月、当山に散華した吉良の仁吉の碑、その仁吉を倒したとされている火縄銃、弾痕などが残されています。

以上、​

荒神山観音寺サイトから抜粋させていただきました。

〒513-0011

三重県鈴鹿市高塚町1777番地   TEL 059-379-0331

 

 

12月初旬のある日、夕刻4時過ぎ頃に当山を参拝させていただきました。

訪れる人は少なく閑散としていましたが、

重みある歴史と、その小さな伽藍が語る姿が印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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